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「沈める滝」三島由紀夫

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「沈める滝」とは文法的な言葉の意味でいうと「沈んでいる滝」です。単なる「沈んだ」でなく、沈んでしまったでもなく、今もなお続いているようなかすかに残るけど決して弱いだけではない存在感。
主人公の昇が惹かれた顕子の様な小さな滝は、人工的なダム建設によって水の底に沈み、顕子は人工的な恋愛に沈んでいきました。

また、昇の仕事であるダム建設における越冬での雪深い生活の描写と雪解け後の晴れやかな解放感と、顕子との関係に冷めて息苦しくなっていく様との対比が印象的な作品でした。

人間の不条理

祖父は私欲のない人だったが、たとえ単なる私欲も、程度が強まり輪郭がひろがれば、人間のふしぎな本能から、無私の要素を含まずにはいない。 同時に無私の情熱も、ちょっと弛んだ刹那には私欲に似るのだ。

偉人である祖父の描写の一部です。両極端の性質って、こんな風に同時に存在しているんですよね。 急に180度、意見が変わったり、気持ちが変わったりする人間って不条理です。どんな偉人であってもそうですから、普通の人は尚更、支離滅裂な行動をするわけです。

目的意識をもつべし

箒が、「自分は物を掃くためにある」と確信しているあいだは、どんなことをしたって箒は孤独にならない。

仕事に熱中していた偉大な祖父と自分を比べて、自分の早く何かに夢中にならねばと自問している時の描写です。

現代の自己啓発本の中に書かれていてもしっくりきそうな表現。目的意識をもって今に集中すべしという意味かと。

不幸を知るには?

狼を知るには、われわれは狼にならなければならない。 同様に昇が不幸を知るには、幸福な人間であることを止めて、その瞬間から不幸な人間にならなければならない。

実際になってみないと本当のところは分からない。経験してみることは大事。 だがしかし、現実問題として手放せない物もあるし、幸であれ不幸であれ変えられない環境があるもので、それによって、永遠に理解し合えないものがあるのでしょう。

単なる反復は深化ではない

或る官能に身を委ねることは、昇にとっては知的な事柄だった。
一人の特定の女に対する心理的な認識欲なるものの曖昧さをよく承知していた昇は、単なる反復を深化ととりちがえたりはしなかった。
~中略~
もし認識が問題なら、色事は決して一つところに足踏みしていてはならないし、もし特定の女を愛することが問題なら、色事はとたんにその抽象的な性格を失うのだ。しかしそもそも性欲とは、人間を愛することであろうか?

色事や愛について、ここまで深く考えている人はどれだけいるのでしょうか。しっかり考えれば色事は知的で深くて面白い。欲望のままに動いているだけの色事とは違いすぎる。

信じて生きていく

『俺は生きてゆく必要上、何かを信じなければならないのだろうか』
~中略~
信じるなら、仕方がないから、丸ごと信じなくちゃ。
なるほど、女の真実を信じることと、女の嘘を信じることは、まるきり同じことなんだ

顕子と手紙のやりとりをしている時の昇の心境です。これが恋というものだと思います。決めた人と付き合っていくならば、この「信じる」という行為をマスターして継続していくしかないのだと。 そして、広い意味では、人と関わって生きていくためにもこの「信じる」という行為は必要になってきます。

antelope、misanthrope、stray sheep

羚羊…antelope・・・misanthrope・・・奇妙な語呂合わせだ

雪山で羚羊(カモシカ)を見た時の描写です。 antelope(アンテロープ)は英語でカモシカの意味。misanthrope(ミスアンテロープ)はフランス語で人間不信。

三島由紀夫は物知りだなぁ、辞書を丸々暗記していたという逸話も納得です。あとなんとなく、夏目漱石の「三四郎」にでてきた「stray sheep(迷える子羊)」が思い浮かびました。

思想的ぬかみそくささ

彼はたいていの社会関係に胡散くさいものを嗅ぎだすという不幸な嗅覚のおかげで、いわばこの世に人間関係しか信じていなかったが、 家計簿をつけるという大人しい道楽ほど、この要請に叶うものはなかった。 あらゆる点から見て、思想的ぬかみそくささの権化の如き人物。

家計簿をつけることが好きな私としては、自分に向けられた表現の様で、ちょっとショックでしたが、三島由紀夫は時々、致死率100%の猛毒的な悪口を吐きます(笑)。 言葉を知っている人の強烈な悪口の破壊力は凄まじい。 悪趣味ですが、語彙を増やして、嫌な事をされたら心の中でこういう言葉を思い浮かべて楽しんでやろうとほくそ笑んでしまいました。

象と象使いの例え

「象は象使いより長生きだものな。しかしたまには、象使いは象の大きな影のなかで昼寝をするのさ」

越冬中の同僚が病気でダウンし弱気になっている時に交わした会話の中のフレーズ。大きなものに立ち向かっていて、展望が見えなくてくじけそうになった時、こんな風に考えられるといいな。

恋愛も遠からず壊れるに決まっている

機嫌のよい証拠に回転椅子で貧乏ゆすりをしている技師長の巨きな背中が見えた。椅子は煮立つように震えて、遠からず壊れるに決まっていた。

雪解け後しばらくして、雪のない生活に慣れた頃の描写です。 物語の全体の流れの中で、開放的な春の雰囲気が当たり前になっていく一方、昇と顕子の関係も変化して冷たくなっていきますが、 越冬に入る際にも技師長の回転椅子の描写があったような気がして、細かいところにも対比を入れていて、綿密な構成が作られていて面白く読めました。

それから、物語のラストのリュショールの一行が陽気に訪れるシーンが、一人の女としての顕子との対比になっているところや、最後のセリフもよかった。


「沈める滝」三島由紀夫



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