「彼岸過迄」夏目漱石
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夏目漱石の作品をちゃんと読んでみよう!と思い立ってから半年ほど…やっと、前期三部作と後期三部作を読み終えました。
読んだ順番は、まず前期三部作の「三四郎」「それから」「門」。そして有名な「こころ」。そして、「行人」「彼岸過迄」です。
学校の授業で習った事はほとんど覚えておらず、若い時に読んだことがある作品もあるはずですが、物語の上っ面を流す程度だし、深い意味など全く理解していなかったので、大人になって改めて読んでみてよかったです。
特に日本文学は日本の歴史理解においても役立つし、思想・哲学・宗教観を理解するためにも欠かせません。
今回の読書では、自分の青年期から大人になる中での、人間関係や世の中の仕組みなどについて実体験から学んできた社会学としての思想や哲学の理解を、文学を読むことによって、言葉で腹落ちさせることが出来たように思います。
夏目漱石って、「坊ちゃん」とか「吾輩は猫である」などの大衆受けするエンタメを書く人気作家という印象があって、なんで神経質な(神経質そうな顔をしている)のかな?と思っていましたが、あれは深く考えている表情なのだと、見え方も変わりました。
そして、夏目の金ちゃんって天才!と大ファンにもなりました。
ということで、全6作品を読んだひとくくりの達成感の余韻の中で、「彼岸過迄」を読んだ思った事などを書き残しておきたいと思います。
構成が素晴らしい
夏目漱石の書く文章は読みやすく、表現も素敵で、込められている意味や表現しようとしている事が奥深いところがすごいと思っていましたが、「彼岸過迄」は、構成がとても考えられています。
これは、自分一人で読んだだけでは分からなかったのですが、小森陽一氏の講座を見る機会がありまして、そこで解説されていた内容によって知ることが出来ました。
時代背景や新聞の連載小説である事や漱石の個人的な事情等とも様々な係わりがあり、そういう事だったのか…と、知ると物事の見え方が変わる事が身に沁みました。
自分は物事を知らなすぎる。もっと勉強したい。もっと知りたいという気持ちが強くなりました。
それで、話は戻りまして、構成はこうです。 「風呂の後」「停留所」「報告」「雨の降る日」「須永の話」「松本の話」「結末」
短い6つの短編と結末という構成ですが、それぞれの絶妙な関連と全体の流れ。誰の視点で書かれているのか等がとても計算された構成になっています。
とはいえ、短編をまとめて一つの長編小説にするという点や、心に闇を抱えている登場人物(主人公)とか、手紙を叙述方法とする書き方(書簡体小説)は、漱石の他の作品と似通っていて既視感があり、どれがどの作品だったのか?記憶の中で混乱する時があります。
まぁそれが夏目漱石作品の特徴と言えるのかもしれません。
気になったところ
心に残った部分をいくつかピックアップしておきます。
「純粋な感情ほど美しいものはない。美しいものほど強いものはない」と。 強いものが恐れないのは当たり前である。 僕がもし千代子を妻にするとしたら、妻の目から出る強烈な光に耐えられないだろう。 その光は必ずしも怒りを示すとは限らない。 情けの光でも、愛の光でも同じ事である。 僕はきっとその光のために射竦められるにきまっている。それと同じ程度あるいはより以上の輝くものを、 返礼として彼女に与えるには、感情化としての僕が余りに貧弱だからである。
純粋である事って、美しくて、美しいものは強い。
私の美意識(真善美)を確認できる一文で共感した。
恐れないのが詩人の特色で、恐れるのが哲人の運命である。僕の思い切ったことが出来ずにぐずぐずしているのは、何より先に結果を考えて取越苦労をするからである。 千代子が風のごとく自由に振舞うのは、先の見えないほど強い感情が一度に胸に湧き出るからである。彼女は僕の知っている人間のうちで、最も恐れない一人である。 だから恐れる僕を軽蔑するのである。
詩人タイプと哲人タイプ。恐れる人と恐れない人。分け方は色々あるけど、人間は人と比べて同じだとか違うとかをよく考える。 そして、違うから駄目だと落ち込みがちで、これは100年経っても変わらない。
けれども私なりの結論としては、「違うからどっちもいい」という事で納得できていて、違うとか同じだとかで神経をすり減らすことなくいられるのはこういった先人たちの苦悩の賜物なのかもしれない。
全体を通して感じた事
どの章にも共通して言えることだけれど、登場人物には、思いがけない展開や深い心の闇とか悲惨な運命等、びっくりするような事が様々起こった。
けれども、それはそれとして日常は進んでいき、彼ら彼女らは何もなかったかのような顔をして淡々と日々を過ごしている。
そして、物語によくありがちなとってつけたようなエンディングはなく、「その後どうなったのだろう?」というところで終わっていて、そこにリアリティを感じた。
事実は小説よりも奇なりというが、結局、人はそれぞれ色々なものを抱えているし、色々な事があって、それでも急激にそんなに大きく物事が変わることはない。
振り返ってみた時に、あの時ああしたらどうだったのだろうかと思う事はあっても、そんなことは些細な事なのかもしれない。
そして、人生とはそういった些細な事の積み重ねでしかない。
それをどうとらえるのか?
それから、これに気づいている人はいるのか?多分、多くの人はそこまで深く考えはせずになんとなく日々を生きているのではないかと思う。
考えるのがよいのか悪いのか?それもまたそれぞれの人の人生なのでしょう。
まとめと私の読書スタイル
私は本を読むにあたって、さらりと読み進めて世界観を楽しむだけでなく、分からない言葉はネット検索したり、気になった言葉をメモしておいたり、youtubeやネットで他の人の感想や評論を読んだりするようにしています。
また、なんでもいいので読了後にはアウトプットしておこうと思いまして、こういったブログも書いています。
それでも、忘れてしまう事がほとんどだと思いますが、それならそれでいい。
自分にとって本当に大切な事を読書から得たならば、それは無意識のものとして自分の中のどこかに残っているはずで、必要があれば必ず私の無意識が役立てるだろうと信じています。
この「彼岸過迄」という作品は、きっと様々な仕組みや深い意味のある事が沢山込められていて、私の意識はそれらについてまだ全然気づけていないでしょう。
なので、他の漱石作品とともにまた何回か読み直す価値のある作品だと思いました。
とりあえず、今回の読書メモはここまでとしますが、これからの読書に弾みがついたし、読書から得たことが、これからの人生でどん風に役に立つのか?ふとした時に、「あっこれって、漱石の本で読んだやつ!」なんて気づいたら嬉しいだろうなと楽しみにしています。
番外:行きたかったお店
古典小説の中に出てきた地名やお店に行ってみることは、私の楽しみの一つです。
今も残る創業100年以上とかの老舗の名物料理とか、当時の面影を感じられる店内の雰囲気などを味わえるのは貴重な体験で、「いつか行こう」なんて悠長な事を言っていたら、またウイルス騒動とか思いもよらない事情で行けなくなってしまうかもしれません。
なので、行ってみたい!食べてみたい!と少しでも思ったらすぐに行動するようにしているのですが、残念ながらなくなってしまった行ってみたかった名店がこの本の中に登場します。
二人は柴又の帝釈天の傍まで来て、川甚という家へ這入って飯を食った。そこで誂えた鰻の蒲焼が甘たるくて食えないと云って、須永はまた苦い顔をした。
川甚さんは、1790年創業の川魚料理店で、230年余りの長きにわたって営業を続けてこられましたが、2021年1月末日をもって閉業されました。
実は、川甚さんとはお仕事関係で少しだけつながりがありまして、私にとっては個人的な思い入れもあるお店です。
まさか夏目漱石や古い文学をこんなに好きになるとは思わず、こんな風に漱石作品の中にしっかりと店名が表記されているとも知らず、「いつか行ってみたいな」という思いはあったものの行動に至らなかったことが、今となっては大変悔やまれます。
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